どうも、タイムスリップしたら鎌倉武士団にだけは出会いたくないダルです。
みなさん「元寇」についてどのように習ったでしょうか?ひと昔前までは、神風のおかげでの勝利。「モンゴル軍は強かったけど台風のおかげでなんとか耐えられた!」的な扱いであったかと思います。
それこそ戦前なんかは、プロパガンダに使われたほどですね。
しかし最近では神風だけではなく「実力も伴って勝った」という風に習うのではないでしょうか。
もちろん最終的なとどめに、台風が一役買ったのは変わりありませんが、台風が来るまでに確実に追い詰めていたという過程の違いですね。
ということで今回は元寇について、そして鎌倉武士団の恐ろしさについてです!
元寇とは?元が攻めてくるまで
まずは元寇について簡単におさらいです。今の中国にあったモンゴル人の国が「元」という国。騎馬民族ならではの強さ・速さで、圧倒的なスピードで西は東欧まで勢力を拡大し大帝国となりました。
この大帝国を拡大していくなかで元は、1266年に日本へ使者と共に以下のような「国書」を送ります。
「我が国は絶賛勢力拡大中です。高麗もうちの傘下になりました。そういえば日本は高麗と仲良かったよね?中国(宋)とも貿易してたかと思うんやけど。
なのにどうして手紙の一通もよこさないの?国交をもとうとしないの?あ、もしかして知らんかった?島根にパソコンないぐらいやもんな、田舎もんやし知らんかった可能性あるよね。
知らんとか困るからこの国書送るわ、以後お見知りおきを。
ということで、日本と元は貿易しよう。仲良くさ!モンゴルでは全部の国を家族やと思ってるからモンゴルのことを父やと思ってくれたらいいからね。
父やということがわからんって言うなら、こっちとしても軍を送らせてもらうわけになるんや。それはこちらとしても本意ではないんですわ。わかりますよね?お返事お待ちしてます。」
なにこのジャイアニズム。交易しようぜ!とか言いながらめちゃくちゃ見下しています
父と思えということは、暗に上下関係を築こうとしているわけで、しかも挙句言う事を効かない場合は派兵すると脅してきています。
朝廷はこの上から目線の国書にブチ切れだったようですが、これに対し鎌倉幕府は無視を決め込みます。その後何度も使者が訪れますがガン無視。そんな中お互い裏では着々と軍備を整えていきます。
ちなみに送られてきた国書への返事の草案は「は?誰やねんお前。そんな国聞いたことないぞ。お前のことなんかなんとも思ってないのに急に武力に訴えんの?神経疑うわ。こっちは神の国や、争うとか以前の問題やからな?よう考えや?」
これ送ってたらめちゃくちゃ怒らせてたでしょうね…。ブチギレ国書を送らなかったのはナイス判断ですが、正式な国書を無視するということは喧嘩を売るのと同等の行為でした。
なぜ元(モンゴル軍)はわざわざ日本海を越えてまで攻めるのか
日本海を渡るのは、当時の技術では至難の業です。かつて日本に渡ろうと何度も試みて、ついには失明してしまった「鑑真」のような例もあります。
鑑真の時代とは違うと言っても、そうやすやすと渡ってこれる環境ではなかったでしょう。ではなぜ貴重な資源を費やしてまで遥々日本を攻めたかったのか?
この三つが要因であろうといわれています。
①日本に大量にあった金が欲しかった
当時の日本には大量の金が流通していました。金鉱が生きていたウハウハのバブル時代で、その噂は大陸にも届いていたのです。
とはいえモンゴル帝国は既に巨大な勢力になっており、金を目当てにわざわざ海を越えて日本にまで攻めてくるかというと怪しいところです。
②南宋への補給経路を断つ
当時の元は「南宋」という中国王朝の生き残りと戦っていました。武力では元の方が圧倒的でしたが、厄介な地形で決定打に欠ける状況でした。
そこで南宋と貿易していた日本を叩くことで、補給線に打撃を加えようと考えたようです。
食料など様々な物資の補給経路を断つのは戦の常套手段ですが、そのためだけに違う国にまで喧嘩を売るというのはスケールの大きな話です。
それだけ日本は容易に落とせるであろうと、甘く見られていたということかもしれません
③捕虜の厄介払い
世界的に戦いを仕掛けていた元には、多くの捕虜がいました。従属させた高麗や戦闘中の南宋などの捕虜を養うには、膨大なお金と食料などが必要です。
「捕虜に飯食わせるのもキツイなあ…。しかもドンドコ増えよるしどないしたもんか。そうだ、戦場に行かせよう。」という酷い理由で高麗・南宋の人々は日本に送りこまれます。
こういった混合編成のため元寇は正規兵でないといわれがちですが、モンゴル人は数が少ないのでこれが一般的な編成であったようです。
しかし実際に攻め込んで来る頃には南宋との戦いは一定の戦果を挙げていたようなので、3つの中では③が大きな要因でしょうか?
他にも使者を無視された事でメンツを保つため、移民を進めるため、金ではなく火薬の材料となる硫黄が目的だったなど様々な説があるもよう。
真実はどれなのでしょう?いずれにせよ1つの戦いで多くの目標を達成できるならそれに越したことはないので、複数の要因が絡んでいたと思われます。
それにしても今も昔も、中国大陸には人が多かったようですね
九州での初戦・文永の役
使者を無視しつづけた結果、ついにブチ切れフビライ・ハーン。日本への侵攻を開始します。
約900隻で約26,000人もの兵士が日本へ向かいます。九州への途中にある「対馬・壱岐」では地獄絵図が…。男性は皆殺しにされ女性は手のひらに紐を通され、矢よけのために船のふちに並ばされたのだとか。モンゴル怖え…。
ですがそれより怖いのが鎌倉武士団。この対馬・壱岐での様子を伺っていたという説があります。つまりこの二つの島を捨て駒にして、戦法や軍勢を推し量っていたというのです。
2020年話題になったPS4のゲーム「Ghost of Tsushima」が、この対馬での戦いがモデルだったことでも有名になりました。ちなみに私もプレイしましたが実際の対馬の地形や、当時の武装などが再現されており、非常にクオリティの高いゲームです。
相手は大陸から来る未知の軍勢ですから、その戦法や戦力などを推し量りたいのはわかりますが、なかなかシビアな判断を下していたようです。
そんなことはつゆ知らず?意気揚々と博多に上陸する元軍。そこには待ち構える鎌倉武士団。
- 元軍「え?なんでこいつら居るの?」
- 武士団「おっす!我ら鎌倉武士団!待ち構えてたぜ。関東から遥々やって来たやつらもおるで。首、首を寄越せ、その首と引き換えに恩賞ゲットや!」
執権・北条時宗は元軍に好き放題させるほど甘い男ではなかったようで、侵攻を読んで軍勢を博多に集め着々と準備を整えていたようです。
よく「やあ、やあ我こそは……」と名乗っている間にやられた兵がいたという話がありますが、そんなまどろっこしいことはせずバリバリ集団で攻め込んでいたよう。人質なんてお構いなしに、バリバリ攻め込んでいたようです。
元側の記録にも「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。」という記述があり、「兵隊は弓と刀を装備していて鎧を着込んでいる。騎兵は集団戦法で連携してくる。」と書かれているわけですね。
私は子供の頃から「外国人相手に名乗ってたら隙だらけやん…」と疑問でしたが、対馬・壱岐が威力偵察だったとすると名乗らなかった方が自然ではないでしょうか
この頃の和弓はモンゴルの弓よりも射程が短かったそうなので、名乗ってたらハチの巣でしょう。
ちなみに弓って威力がいまいちピンときませんが、和弓は数十メートル先のフライパンをブチ抜くほど貫通力があるようです。盾や鎧なんてお構いなしの威力…。
モンゴル軍は思いのほか苦戦、てつはうもいまいち…
バッチリ待ち構えられていたことで、図らずとも背水の陣になってしまったモンゴル軍。島国ってやっぱり天然の要塞です。
元軍の記録では「人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」とあります。「あいつら勇敢すぎ、死ぬのを恐れてない、ヤバい」と記されていますから苦戦したもよう。
戦意を削ろうと大将の首を振りかざすと、取り返そうと一層勢いよく攻め込んできたというので元軍も恐れたのだとか。
首を弔うためにも取り返さないと…って気持ちはわかりますが、元には理解不能だったことでしょう。鎌倉武士団マジ蛮勇
射程ではモンゴルの装備の方が勝るものの、威力と防御力そして蛮勇さでは武士が勝っていたようです。
また「てつはう」という火薬が炸裂する手榴弾的なもので苦戦したと教科書では習いましたが、どうやらてつはうは撤退用の武器だったとも。
追撃してくる敵に向かって投げることで足止めするものですね。これは一定の効果があったようです。「馬」には。鎌倉武士団は馬を置いてお構いなしで突っ込んできたのだとか…。そのため時間稼ぎ程度にしかならなかったようです。
この有名な絵巻では、さも苦戦しているように見えますが左側の兵はおもっきり逃げてます。盾ごと射抜かれたりしているので和弓の威力がわかります。
しかし反撃している三人のモンゴル兵とてつはうだけ絵のタッチが違うので、書き足されたものではないかと言われています。
- 竹崎季長「頑張った証拠に絵巻描かせたけどほんまの事だけやったら余裕っぽいよなあ…。どないしよかな。」
- 部下A「せやったら、苦戦感だしたらええんちゃいます?悟空来るまで持ちこたえてるクリリンとか頑張ってる感じしますやん。」
- 部下B「このへん空いてますし、モンゴル兵描き足しましょ!」
こんな感じです、きっと
そんなこんなで戦いは一週間ほど続きますが、ここでついにやってきます「神風」が。
九州未体験なのでよくわかりませんが、11月の玄界灘って大荒れだそうですね。そんな場所に一週間も停泊していたモンゴル軍。海が荒れ狂うので撤退します。
当然と言えば当然ですね、時期と場所が悪いです。寒冷前線がとどめになったわけですが…、内陸まで上陸できなかった時点でこれ以上滞在していても消耗戦だったでしょう
本気のモンゴル大軍VS万全の鎌倉武士団、弘安の役
南宋との戦いに勝利した元は、再び日本侵攻を計画します。まず使者を送り込みますが、なぜか帰ってこない…。
前回、使者を無視して帰らせたばっかりに堂々とスパイさせてしまっており、地形などのデータが流れていたよう。今回はそうさせないように、幕府は使者をことごとく切り捨てました。
通常、使者を殺害すれば戦争に発展しかねない大問題ですが、既に侵略されていますからお構いなしだったのでしょうね。
斬首の知らせが元に届いてからしばらくして、二度目の遠征が行われます。征服した南宋の兵を従え、前回の3万より遥かに多い14万の軍勢を日本へ遠征させます。
東路軍と江南軍の二手で日本へ攻める
今回は東路軍4万、江南軍10万の二手に分かれた遠征となりました。
まず日本へ到着したのは東路軍。九州へと近づくと、そこにはびっしりと張り巡らせた防塁が!完全に準備万端で迎えうった鎌倉武士団。元軍もこんなとこに派遣させられるなんてやってられませんね。
- 元軍「二回目の遠征は数が違うぞー!!今度こそやっつける!」
- 鎌倉武士団「「「「「こっちこそ今度こそ叩きのめしたるわあああ」」」」
- 元軍「へ?」
- 鎌倉武士団「前回開催から時間あったんでね、せっかくやから海岸線に防塁張り巡らせたわ。軍も配置完了して準備万端☆」
あれからいつ攻め込まれてもいいように、幕府は博多・大宰府の防衛に力を入れていました。海岸線にはびっちり延々と続く防塁が築かれ、臨戦態勢の武士団を配置しています。
ざっくりと説明すると、2メートルを越す壁の上に鎌倉武士団が陣取っています。
そこへ向かうには足止めのトラップを回避していく必要があり、しかし上からは容赦なく矢の雨。加えて弓は改良され射程距離はupしています。
そんな所に近づける訳もなく、後退を余儀なくされる元軍。
しかし鎌倉武士が大人しく撤退を見届けるわけもなく、後退する元軍に鎌倉武士団の夜襲祭りが始まります。夜襲しまくって元軍を眠らせなかっただけでなく、牛馬の死体をほりこむプレゼントつき。
時期は夏ごろでしたから、絶大な威力を発揮する生物兵器だったでしょう。夜襲だけでなくバイオテロまでされちゃボロボロです。
しかも夜襲時に海に落とされても、武士たちは平然と船上に上がってきたのだとか。
いくら古式泳法でも鎧着て船に上がれるものですかね…内陸育ちのモンゴル人でなくとも恐ろしい光景です。昔の人は凄かった
- 東路軍「早く、早く来てくれーー江南軍んんんん」
そんな願いも虚しく江南軍は一向に来ません、やっと合流したと思ったらなぜか江南軍もすでにボロボロでした。それもそのはず江南軍が通ってきたのは、かつて鑑真が失明したルート。むしろ無事に合流できただけでもハッピーです。
ボロボロの元軍は神風にとどめを刺される
博多どころか満足に上陸することもできないまま船に缶詰め状態で、バイオテロにより疫病が蔓延する中やっと東路軍は江南軍と旧暦の7月に合流を果たしました。
7月???そう、このタイミングで例年通り台風が来ます。沖に停泊した船が無事で済むわけもなく多くの死者が。この惨状を見て指揮官たちは、10万の兵を見殺しにそそくさと逃亡します。
残存兵は撤退用の船を建造するために、「鷹島」へ立てこもります。そこに掃討作戦をかける鎌倉武士団。
疲労困憊、武器・食料不足、疫病、指揮官不在の元軍は総崩れに。鷹島には血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷といった地名が残されることとなりました。
2万人ほどの投降兵が奴隷になり、それ以外は戦死・処刑だったようです。かくして元寇は日本側の圧勝で幕を閉じます。
「神風」は来るべくして来ただけで、台風がなくとも武士たちは強かったようです。強いて言うなら日本海最強ということでしょうか
鎌倉武士団に喧嘩売るような人生は送りたくないですね、攻め込む側が不憫に思われる戦いもそうそうないでしょう。
コメント
コメント一覧 (2件)
今の関西弁に訳されたとこで吹き出してしまったwバイオ兵器まで使うとは・・・鎌倉武士団エグすぎww
そうなんですよねえ
鎌倉武士が強かっただけなのに
学校で習ったのは
運が良かったと習った
なぜ歴史がねじ曲げられたんでしょうね